ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

金銭消費貸借と、友

 人生が長くなると、他人*1の債務を肩代わりしたり、他人の負担を自分が引き受けたり*2することがままある。それから、食事や宿泊費、移動費を他人の分まで支払ってあげたり、もっとダイレクトに、現金をプレゼントしたりすることさえある。それまでの取引関係やこれからのつきあいの見通し、共感や同情や下心など、わざわざ自腹を切って、他人の金銭的負担を軽くしたり融資を受けられる機会を与えたりする動機はさまざまだろう。そこは、自分の財布や信用に関する一種の経営判断の範囲に属するところだ。

 友人に乞われて金を貸すのは、どうだろう。わたしには、それも、自分の持てる財を自分の判断で動かす行為に過ぎないと思われる。自分の銭なので、かしこい買い物をしようが傍からみれば愚かしい買い物をしようが、誰にも迷惑はかけていない。

 

お金を貸して絶縁するだけの話 - やしお

ごくシンプルに、借りたお金は返さねばならないもので、頼まれてお金を貸したブログ主さんは倫理的な意味も含めて、まったく責められるべきではない、と感じました。

2019/05/25 10:14

  貸したほうが、返済されない借金や返済しない相手との関係性をブログでいくら悔やもうとも、貸したこと悔やんだことすべて傍の者が叩くのは、ちょいとゆきすぎじゃないかねえ。

 ブックマークコメントをみていると、「お金を貸すときは相手にあげるつもりで渡せ」という教育を施している家庭が多いようだ。それは裏返せば、「あげるつもりで金を渡せる相手でなければ、金を貸すな」という意味かもしれない*3。わたしにとっては、単なる金銭消費貸借なので、貸したからには返済されるのは当然のことで、そこには「弁済期が到来したからといって気の毒だから取り立てない」ことなどありえない。

 これだけ高度に小口の金融システムが発達した社会にあって、個人に借金を申し込むのは、信用状態がよろしくないか、弁済期に利息を載せた返済をしたくないかのどちらかであろう。それは、借主の事情で、貸したほうが友情を金で買っただのあとで苦情をいうのは美しくないだのと非難される謂われはない。それまでのつきあいで費用の殆どを負担していたのだって、異性間の交際なら「え!」と聞いて少々驚くような不公平な負担割合だってしばしばあることじゃないさ。

 ぜんぶ割り勘で明朗会計の学校ともだちのようなつきあいもあれば、一方が手元不如意のときに他方がかなり多めに出したりする交際もあるでしょ。そういうのがまったく肌に合わないという人もいるだろうからそれは否定しないけれど。

 

 

新装版 あ・うん (文春文庫)

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  戦前の転勤族のサラリーマンと実業家*4が、徴兵されていたときの寝台親友のつきあいを除隊後も続けていたという話で、後半、お金が原因で揉めるけれどこれはこれで味わいがありました。

 わたしはお金がないから、貸すのも借りるのもなしだなあ。

 

*1:自然人とは限らない。

*2:担保物権法で学んだ、あれとか。

*3:まさかそのために、「金を貸してくれたからには、もらったと思ってもよい」とする人々が生ずるとは思わえないが。

*4:映画化されたときは、板東英二高倉健