ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

滅亡までになにもしない

 小松左京原作の『日本沈没』が、再度映像化されてなかなかの人気だという。わたしは、最初のドラマ化の記憶はなく、Newtonの初代編集長だった竹内均教授が地震学者の役で出演した映画は観た。その後、柴咲コウさんが東京消防庁のレスキュー隊員、草彅剛さんが深海探査船のオペレータを演じた映画もみた。水雷かなにかを連鎖的に爆発させることによって日本列島の沈降が抑えられるという夢の技術の実施と引換えに、潜水艇のなかで命を落とすオペレータが気の毒だった。

 原作『日本沈没』のなかでは、京都の学者たちが日本国民のこれからについてプランを練るシーンがある。政治的思惑から、また、労働力として、何百万人単位の日本人を受け容れようという大国の招きに応じて日本国民を送り出すとか、まとまったファンドを作って国土は失っても政治的影響力はなおも維持すべきだとか、きっといろいろ話したことだろう。そして、最後に、「なにもしない」というプランが提示される。

 日本沈没によって、一億人からの人間が、ユーラシア大陸や、北米、南米、オセアニア、そしてアフリカに散る。敗戦直後の日本人ではない。そこから20年、30年を経て、持ち家やマイカー、家電製品を所有し、教育も受けて、レジャーの楽しみも覚えた国民だ。それが、確たる政府に保護されない、難民として世界の現実に曝される。耐えることは容易ではない。想像を絶する苦難を数世代にわたってしのばせるくらいならば、日本の国土と一緒に殆どの国民は滅ぶのもひとつの選択ではないか、というのである。

 柴咲コウさんの出演した映画でも、とにかく高いところへ高いところへと誘導される老幼の姿が描写される。すべてを航空機や艦船で避難させられないとき、そこに棄民という選択が生じる。誰かがわざわざ命令書にサインをする必要はない。全員が避難できる数のヒコーキやフネを手配しないことの結果が、棄民なのである。部分的に、「なにもしない」と、そういうことになる。