ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

『鎌倉殿の13人』第15回

 鎌倉殿と呼ばれるようになった頼朝の権力の源泉は、源氏の嫡統であるという毛並みの良さである。父親の義朝には何人もの男子があり、頼朝にもふたりの兄があったが、平治の乱の当時弱冠14歳であった頼朝が父の後継と目されていた。14歳の佐殿、それは、平清盛にはとってはなさぬ仲の父の嫡妻・池の禅尼が、頼朝ははやくに亡くなった息子に似ておりここで首を落とすのはあまりにいたわしいとかいってどうか流罪に留めよと清盛にリクエストしてもおかしくない幼弱さであった。かれが流罪の地・伊豆にもってきたのはわが身ひとつ、所領も武装勢力も自前のものはない。それが蹶起前後の頼朝であった。

 その後、伊豆より東の有力武士団に取り囲まれてその旗頭とされたものの、なお頼朝の権力基盤は脆弱であり、今回、鎌倉では、御家人であると同時に領主である宿老らが成人の頼朝を追い落として、その長男の万寿ぎみなり、木曽の義仲の長男の冠者殿なり、いとけない年頃の「源氏」をかしらにいただいてやり直そうという企てが進行する。その企ての顛末は、ドラマで描かれた通りであり、上野介広常の佐藤浩市さんが義時ならずとも落涙せざるを得ないようなえらい目に遭う。

 上総介の屋敷の改めを終えたと報告して、安達盛長が広常の鎧のなかにあった紙片を頼朝に示す。稚拙な文字で綴られた願文じみた書には、これから明神のための田を作り、社も建てるが、これらはすべて頼朝殿の大願成就のためであるとあった。こんなに広常はあなた(頼朝)のことを大切に思っていたのに権力の安定のためにあなたは広常を殺したという空気の前に、頼朝はあれは謀反人であるといって座を去る。中大兄皇子に殺された蘇我倉山田石川麻呂にも同じようなエピソードがなかったか。

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伊豆の資料があまりないので。