ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

眠っているのか起きているのか生きているのかまさか

 天気予報では、当地は、きょうの午後からしばらくの間は降水確率80パーセントで、これは、「まとめて降ります」という空からの事前予告と判断して構わないのだろう。だから、8日早朝もうっすらと暗い感じの夜明けで、土曜でもあることだしと5時過ぎてもそれでもだんだん白みゆく天井板を眺めていた。

 数日前から、眠っても眠った気がしない状態が続いていることは昨日の分のエントリで書いた。左肩は痛み、オムロン社の電磁パルス治療器のパッドを肩口と二の腕に当てて思い切ってレベル15で肩モードを始めてみたら、それはさすがに強すぎて、たとえていえば電気的刺激で跳ねた筋肉が皮膚から飛び出していっちゃいそうな勢いを感じた。だからレベル13ぐらいに落として、15分間。左肩だけがいつも痛いのは、たぶん左腕にばかり無理をさせているからだろう。

 自己憐憫ということを考える。自分にとってきつかった過去の出来事を自分自身のこととして省みるのではなく、別の時間枝にいる、自分によく似た者の身の上に起こった不幸なりトラブルなりとして考えてみる。自分が35歳くらいで、相手が21か22歳、知り合って二年目の職場の後輩ぐらいの関係として、話を聞いてみる。わたしによく似た彼女は、時折譲歩構文など織り交ぜながら、自分だって百パーセントのクリーンハンドではないし、もちろん相手にだって言い分はあるだろうけどとかつぶやきつつも、滔々と恨み言を縷々述べることだろう。

 そう、頭の中の恨み言は、けっこうな頭のリソースを食い潰しながら、一向に終わる気配もみせずに何万回も繰り返される。繰り返すことで思いは強化され、新たな傷を心の表層に中層にそして深層に形成していく。それでも、内攻する性質の人間は、こうした一見不毛な営みを止められない。痛みを感じることで自分が「ここ」にいるのを確認する、魂の自傷行為はよくないことなのに必要不可欠な行いなのだ。

 中年のわたしが、若年のわたしの泣き言を聞く。その「絵」を初老のわたしがさらに外側から眺める。自分をぼろぼろにするだけの、無為な営みをこれから何十年も止められない、どこかの時間枝にいる「自分」を、抱きしめて慰めることは、中年のわたしも初老のわたしも、たぶんしないだろう。ただ、その若年のわたしをじっと見つめて、その孤独の時間さえも奪われて二度と帰ってこないのだと思い知るだけだ。