ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

お礼を言わないのは誠実さの表れなの

ありがたきもの 舅にほめらるる婿の君 また、姑に思わるる嫁の君

(『枕草子』第七十二段)

 

 当事者の目に触れることはないだろうけど、念のためやや事実関係をぼかして書きます。先日、ある高齢の女性から、「うちの息子の妻は、何かをしてあげても、お礼というものをいったことがない。」旨、聞いた。彼女の息子の妻は、近所に住んでいてフルタイムで働く専門職で、ふだんの日、家事に携わる時間が潤沢にあるわけではない。だから、「なんとかをする時間がない」と夫の母親である、その高齢女性に告げることがある。すると、高齢女性のほうで、「では、わたしがそのなんとかをしてあげるわ」と言い、息子の妻もまた、「ええお願いします」と用件の処理を依頼するが、用件の処理の完了を姑が告げたとしても、「それはどうもありがとうございました」の一言が常にないので、姑としてはなんだかなあという思いを十年以上ぶら下げて生きているのだという。

 お礼がない、それが物足りないとか業腹だとかというならば、「あら、こんなときには一言、『アリガトウ』と言うものなのよ」と催促すればいいじゃないかとわたしなどは思う。息子を含めた、孫や嫁の世帯が、家事従事時間の不足によって生じる不具合に陥るのを自分の労力で防いだという満足感のほかに、嫁からの感謝のことばがなくては物足りないというならば、いちばん手っ取り早いのは、『アリガトウ』と嫁に言ってもらうことだ。まさか嫁の方でも、切り口上に、「そんなに恩着せがましいことをおっしゃるのならば、次からお願いしません」とは言わないだろう。

 わたしは、その高齢の女性がほしかったであろう、「それは、おうちでのご教育がお礼をいうようなものではなかったから」という趣旨のコメントはあえて口にしなかった。姑に『アリガトウ』と言わないことについては、嫁の側にそれなりの理由があるのかもしれない。その嫁のひとが、姑に限らず、『アリガトウ』とは滅多に言わないことはこれまでにもしばしば聞いていたし、わたしもほとんど言われたことがない。

 ただ、『アリガトウ』をいわないのは、ありがたくないから、そして、自分がありがたがってはいないことを相手に知られても困らないからだというのはなんとなくわかる。ありがた迷惑なんです、というところまではいかなくても、自分の意思に反して、ありもしない感謝の念を伝えるような形骸化した行為をとることはしないよ、と。

 まあ、形骸化していようが、過去に多少の感情の軋轢があって意地になっている部分があるのか、ともかく『アリガトウ』とその都度いっておきさえすれば、拡大家族内の御もやもやを外のわたしにまで飛び散らせることもなかろうし、わたしがまた、「いってくれたら嬉しいことをあえて口にしない因循な親戚の女」といわれずに済んだろうが、言いたくないことはしかたがない。

 

 

 

 上下巻とも、表紙は上村松園さんなんですよ。中学校の斡旋販売で、たしか旺文社の文庫を買ったとき、書名が『枕冊子』で、編者の先生のこだわりを感じました。