ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

いちばん悲惨な戦争はどれかとか

 5日の深夜、ウクライナ共和国のゼレンスキー大統領の国連安保理における演説を聴いた。演説の後ろに付加されたという、首都キーウの郊外にあるButchaという町でロシア兵により行われた民間人に対する拷問と殺害の証拠となる1分間のショートムービーは、おそらく日本の放送コードに明らかに抵触する内容ゆえに少なくともすぐには放送されなかった。

 ゼレンスキー大統領は、このButchaをはじめとする多くの都市や町、村で繰り広げられた惨劇を第二次世界大戦後もっとも恐ろしい戦争犯罪であるという。それは、誇張や誤りではない。同時に、わたしたちは、第二次世界大戦終了直前に投下された2つの原子爆弾のせいで人生を奪われ、破壊された人、空襲で親兄弟や住居を失った人が日本にたくさんいること、その日本がアジアの諸国において忌まわしい災厄としか呼びようがない残虐行為を行ったことを覚えている。1945年8月よりのちも、世界中で戦争や紛争という呼び名の戦闘行為は起こされてきたし、それらのほぼすべては、けっして、公平に裁かれ、罰せられ、補償されてきはしなかった。肌の色や話す言語、ふだんの生活水準の高さ低さで、いのちの重さを決められてたまるかとは思うけれども、現実は、そのあたり、まことにいびつである。

 伊藤計劃は、『虐殺器官』のなかで、ことばを通じて大規模な虐殺の種を蒔いてまわっている謎の男を描いた。かれがそれを行うようになった動機は、大切な家族の死で、その悲しみ(と後ろめたさ)が見ず知らずの人を大量に殺し合わせる企ての原動力として働いていた。平家物語には、熊谷直実が、「うちの子が手傷を負ったときいただけでもわたしはとても心配なのに、ましてやこの公達が討たれたときいたら親御はどんなに悲しむことか。」という意味のことを口走るシーンがある。その伝でいけば、妻と娘が一瞬の核爆発ののちに亡くなった衝撃をこそ噛みしめたジョン・ポールは、世界中から争いを減らすためにその知識を用いるべきだった。そうではなく、皆に自分が感じたのと同じ衝撃と悲しみを与えるのだと心に誓ったところに、残念だけど人間の本質があるのだろう。喪失の前に人間は孤独であり、他人の心中を推し量ることはむずかしいのだ。伊藤計劃はそれをよく知っていて、それゆえにあえてその方向に進まない知性をかれののちの人類に望んだ。