平安末期、藤原伊子という女性がいた。いや、いたとしよう。松殿基房の何番目かの娘で、木曽義仲が軍勢を率いて京の町に進駐し、ただでさえ飢饉に苦しむ都の内外から木曽の軍が糧秣を徴発しては憎まれていた時期に、義仲が彼女のもとに通うようになった。義仲が範頼らの手にかかって亡くなった後、しばらくして、伊子さんは、源通親と結婚して子をなした。長じて僧となったこの子が、道元である。なお、松殿基房の兄弟には、『玉葉』を記した九条兼実や、『愚管抄』の慈円がいる。
一方、巴御前は、義仲が亡くなったあと、和田義盛との間に朝比奈義秀を儲けたという風説がある。ただし、義秀の生年から数えると、これには無理があるといわれているようだ。
いずれも、日本版ウィキペディアなどを読んだあとのメモのようなもの。九郎義経が衣川館で討たれたが逃げ延び、大陸に渡ってジンギスカンになったという以上の荒唐無稽さはないが、みんなそれぞれにいろいろあったのだなあ。