ぴょん記

お暑うございます。

品くだることもなく、ほどほどで

 田舎では、菓子の出来などを褒めて、「これはなかなか、ヒンガイイ。」と大人がいうことがありました。ヒンガイイは、「品がいい」。その反対は、ヒンガワルイ。「品がわるい」といわれることは、比較評価軸の乏しい田舎においてはなかなかに致命的で、では、その「品」を評価して口にする行為自体はというと、それほど上品なものでもないとわたしは思ったものだった。

 日本橋室町にたくさんの商業施設を取り込んだビルがあり、そこに入ったテナントの一つが昼の定食を出す店で、映画の行き帰りなどに数回利用した。料理は安価で、しかもおいしいのでよい店なのだけど、ただひとつ、ビールのグラスに口紅の跡が必ず残っていた。これは、前の客にビールを提供したあと、グラスを一通り洗いはしたものの、最近の口紅は我慢強いので、洗剤にもお湯にも負けず居残りを果たしたのだろう。汚れているので替えてくださいというと、店員さんは、はい、と愛想よくグラスの交換には応じてくれるものの、ついぞ申し訳ありませんというフレーズを聞いたことはない。口紅の跡が残っているのはグラス洗いを担当した他の店員のミスであって、わたしの不始末ではありませんよ、と面と向かっていわれたわけではないものの、なんとなく腑に落ちない感じが残って、自然、次第に足が遠のいていった。

 そのビールのグラスに残った口紅の跡ほど強烈なイメージではないけれど、ヒンガイイといわれるものについて、わたしは、一時期、けっこうな抵抗感を抱いていた。たとえば、茶の湯。お茶の稽古につかわれる菓子鉢の表面の細かな凹凸や、抹茶の付着した綿の巾など、苦手なものが幾つかあった。そして、茶の湯自体は日本の伝統文化として営々と受け継がれ、磨き上げられてきた美の集成であるだろうが、いくらこれがよいと教えられても、個個の茶碗や花入れ、軸物などを、ヒンガイイとして愛することは到底できなかった。京都国立博物館で今秋催される茶の湯の展示はもちろん拝見しに出かけるけれども、ティーセレモニーの中に自分を置くことはとてもとても考えられない。

 思うに、上品も、下品も、あの「ヒン」という音の立つ場所では、それほどたいした違いはないのではないか。

 

 そもそものはじめは、これだった。