ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

『鎌倉殿の13人』第29回

 梶原殿の一族は、鎌倉の軍勢に攻められて滅亡した。それぞれの名札を付した首桶に納められた首級を幕府の中枢が実検するシーンから、この第29回は、始まった。理智に勝り、若すぎる第二代の頼家を私心なく支える人と、少なくとも政子と義時は認めていた梶原殿だったが、一朝ことあらば鎌倉へ駆け付ける奉公と引換えに、所領の安堵とさらなる報奨としての所領の拡大である御恩をシビアに求めるリアリスト揃いの御家人たちに忌まれて、13人の宿老から真っ先に姿を消した。

 でも、御家人たちが現実的なのもしかたない。

 世界中、紀元1年から同1500年くらいまで、GDPに大きな変動はなかったとどこかで読んだ覚えがある。農業生産力が飛躍的に向上するためには、たとえば動力が人力のn倍の機構が導入されるとか、土地改良のための肥料や農薬がとても優れたものになるとか、なにより戦争がなく、働き手が戦死したり、あるいは重傷を負ったりせず、田畑が荒らされたり掠奪が行われないことが望ましい。小氷河期だったかもといわれる期間さえ挟んで、そうした恵まれた条件が農民に与えられた時間はきわめて限られている。

 また、本郷先生のかの新書本の一節に、御家人の家計の例として三浦義村の収入についての言及がある。後世の大名の中には、表高は百万石なんて家があるくらいだから、鎌倉時代の有力御家人も相当実入りがいいと思っていたら、だいたい一部上場企業の部長さんの給料ぐらいだった。本郷先生は、具体的な金額をお書きになっていたけれど、わたしは、このくらいにぼやかしておこう。その給料で、家の子郎党を養い、戦に農民らをも動員するときには、みんなの兵糧を賄うのだ。馬や甲冑のような装備にもお金がかかるし、「あなたは頼りになる人だから」と大番役に任じられたりしたら、もうたいへんである。現代の部長さんは、馬廻りの若者を雇わなくてもいいけど、義村が単騎で戦場に出たら、たちどころに命を奪われてしまう。

 だから、御家人たちは、なによりも所領の安堵と、それから負担の少ないことを望むけれど、梶原殿の志向した、より強い鎌倉殿とそれに素直に従う御家人勢のモデルは、彼らにとってまったく迷惑千万なものだったようで。

 頼朝のきょうだいの中では珍しく粛清されなかった全成が魘魅(呪い殺すまでは必要でなく、病気にするだけでよいとはいわれていたが。)の疑いを掛けられて、次回、追い詰められる。孫を病気にするまじないを娘婿に依頼する時政という人はいったいなんなのだと思うけれども、1200年4月、従五位下遠江守に任じられたことで、侍から一段階高い諸大夫に連なっていたのでした。

 

 Kindle Unlimited で読んでよかったので、物理版で購入しておきたい。