ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

与えれば憎まれるというパラドックスについて

 ふつう、親切心からモノをもらうとか利益を与えられると、人は、相手に対して感謝の心を抱きそうな感じがするが、その受け取ったモノの価値なり便益なりが一定の水準を超えたとき、ありがたさが負い目に変わり、ついには、厭なやつだなという感情をもつに至る、だから、人にモノをあげるときには慎重に、というはてなブックマークのついた記事を数日前に読んだような気がする。しかし、見つけ出せない。

 それはともかくとして、あからさまに歓心を買おうとしてではないけれども、わたしは、頼まれれば大抵の用事は時間を作ってこなそうとするし、ちょっとしたものだけど、相手の好きそうなものを選ぶのを好むところがある。でも、掲題のパラドックスによると、わたしは、わざわざ自分の時間と労力と、ときには財布の中の小銭(そのくらいしか自分の自由になるお金がない!)を削って、疎まれる種をせっせと蒔いているのかもしれない。

 出先でいかにも鼻をかみたそうにしている人をみて、バッグから出したティッシューを「よろしければ」と差し出すのは、いい。鼻紙一枚差し出されたくらいで怒る人も珍しいだろうし、まして、怨みを向ける人などいないだろう。では、どのくらいの贈与や利益供与ならば将来の憎悪の契機となりうるかと聞かれれば、それは当事者の年齢、立場、個性によっても異なるだろうから一概にはいえない。こないだはずいぶんご馳走になったからそのうちお返ししなきゃいけないけどいま財布がけっこう苦しくてという感じで、しばらくの間、疎遠になることもあれば、あんな窮地を救ってくれてありがたいはありがたいけれども少し期限には遅れたけど借りた金はきちんと利子を添えて返したし、こんなに何回も恩に着せられるんじゃいっそ他のやつから借りればよかった(『笠碁』)というように、感謝が反転してはっきり憎しみに変わることもある。

 こどものころの軽やかな「これ、あげる」が、年をとると、どうにも窮屈なものになってしまうようで。

 

追記:

 よいものをいただいたり、親切なお計らいを与えられたりしたとき、自分は……とつらつら考えてみて、恨んだり憎んだりなんてとんでもないありがたく思うに決まっている、と思いつつ、やっぱり貰う一方では心苦しいからと及ばずながら心ばかりのお返しを考えてしまうあたり、そうかそういうことかもと。ポトラッチの苛烈さ。

怪獣裁縫はあらたな段階へ。

 7ミリの針目で縫う特訓中。