ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

若い世代こそが標的であるとは

 2週間ぐらい前のこと、NHK-Gの今般のガザーイスラエル戦闘の専門家討論で、軍事的攻撃でこどもが傷つく、死ぬ、その情報に触れた他の人間は、なんとかこれを食い止めねばならない、だけど現状どうしようもなくて、そこで大きな無力感に囚われる、という主旨の発言があったと思う。自分よりも若い世代への顧慮、その生命と身体の安全への顧慮は、人間性の発露にして、もはや文明人としての嗜みのひとつであろう。それが、たとえ敵方のこどもたちに対しても。

 P・D・ジェイムズ『人類の子供たち』では、こどもが一切生まれなくなった近未来社会で、ある日、世界でいちばん若い人間が死ぬ。これは、世界的な大ニュースとなり、悲嘆にくれた人々は、それぞれ取りかかっていた大がかりな、あるいは個人的な絶望的行いを加速させる。たとえ自分に直接の子や孫がいなくとも、コミュニティや国家、人類の文化を嗣ぐ若い世代があると思えば、安堵して老い、やがて死にゆくことができたものを、自分たちが人類のいちばん最後とわかってしまえば、やたらと未完で惨敗した部分を苦にするものらしい。国も自治体も個人の人生も、早じまいが推奨されるし、希求される。

 現実のパレスチナにおいて、ガザ地区のこどもたちは、おのおの持ちうる大きさの石もち検問所のイスラエル兵を狙う。イスラエルの若者は、皆兵制度のもと、男女を問わずそれぞれ数年間の厳しい訓練と軍役を経て、平時はたとえばエンジニアとして会社に勤めていても、一旦動員令が下れば、数十万規模の予備役が自家用車で境界近くに集合する。ガザ地区の若者には、武器弾薬を中心とした外国の軍事支援はあっても、兵としての十分な装備や訓練は望めないので、爆薬を身に帯びて行う自爆テロという手段がしばしば用いられる。すでにふたりの息子を自爆テロに差し出したパレスチナの母は、残りの息子も、必要ならば自爆テロに送り出す、という。

 8歳のこどもは、5年後には、自爆テロの遂行が可能な少年少女に育つ。15歳の少女は、5年後には正規兵として優秀なスナイパーに仕上がっているかもしれない。

 間抜けにも、わたしが、『どうしてこんな小さな子が大怪我をして死の危険に晒されねばならないの。』などと「心を傷めて」いたところで、数十年に及ぶ戦闘状態を生きてきた現地の人々は、わずか数年後には実働部隊の一部を構成するようになる8歳が、女性1人あたり4.7人の出生率を示すガザ地区の市民であることを忘れない。そして、イスラエル出生率も3.0人で、けっして低くはない。多子のイスラムに呑み込まれないよう、生まれたこどもたちに高等教育と軍事訓練を同時に施して、国全体の生き残りをかけている。

 何度も思い出す。ミュンヘン五輪で選手団が殺されたとき、当時のイスラエル首相ゴルダ・メイアは、言った。「世界中に同情されながら滅びるよりも、世界中に憎まれつつも生き残るほうを選ぶ。」と。

 当然ながら言い分は、それぞれにあるのだろう。でも、間抜けなりに考えてみて、やはり「仔殺し」というのは、わたしたちという「過去」による、人類へのその先への干渉にほかならないのではないかと思う。