ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

きょうは帰ってきた冬の日

 早朝、台所での一仕事を終えて机についたとき、iPhoneの画面に「これから何十分か、雪が降る」と表示が出た。北側の窓を開けてみると、雪の片鱗もなく、しかし、空は鈍色である。9時過ぎに外に出ると、ぽつりぽつりと上から落ちてくる滴があった。それが昼頃には雨のかたちになり、あとは曇ったりときたま照ったりと空の機嫌はなかなか安定しなかった。気温も低いままで、午睡のあとはあまりに寒くてさっさと入浴してしまった。

 白元さんの出している温泉のもとがなくなったので、このごろは、LUSHのバスメルツをひとかけひとかけ提供している。きょうは、ジャスミンクリーム。精油成分だろうか、バスタブの隅に虹色の膜がうっすら残ることがあるけれども、かおりはむしろ穏やかである。もっともわたしは浸からないのだけど。

 味噌汁が和食を調理する際に面倒かどうかという論戦があるそうな。朝、青菜のお浸しや冷や奴の生姜や葱を一から用意するのは骨が折れる。湯を沸かし、出汁の素を溶かして、煮えにくい具から3、4種類、順次投入していって、最後に味噌を溶かすというだけで、青菜、豆腐あるいは納豆に火を通して摂取できるのだからかえって手軽なほうである。ただ、わたしもそれに気付くまで、一年以上毎朝味噌汁を炊き続ける必要があった。出汁のもとは食塩無添加のリケンのものを適量、味噌は通常の使用量の半分程度という縛り以外はなにもないが、「具沢山」gudakusan という語の帯びる居心地の悪さは感じる。「完食」kanshyoku とはまた違った意味でいたたまれない。「完食」は、その語こそなかったが、学校給食を残さずすべて食べなさいと求められて苦しんだ小学生のころを思い出す。

 この内臓は、紛れもなく自分のものなのに、口に入るものを取捨選択できない。なにもここにないものを出して食べさせろといっているわけではなく、目の前のものを食べたくないというだけの自由、百歩譲って我が儘さえ許されないというのは、児童の大いなる不幸だった。

 選べるうちは、食べたいものを好きな程度、口にしていれば足りるんじゃないですか。だから、味噌汁も、炊いて食べようと思ったら用意すればいいだけのことで。

 

 

 これ、便利なので、味噌を溶いたあと、ボウルで卵と麵つゆを混ぜて、だし巻きの準備にそのまま使っています。