ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

半年ぶりに自転車に乗った

 昨年11月に、電動アシスト付き自転車に乗り損ない(漕ぎ損ない?)、あまつさえその自転車と地面との間に半身を挟まれて、反射のせいでしばらく動けないという事故に遭った。その事故が起こったのは、自転車置き場を出て、住まいのある住居棟の集合玄関に差し掛かったところ。10分ほどして回復したので、そのまま用事を足しに自転車で行って帰ったけれど、どうにも足がペダルに届きにくい。腿が十分に上がらないのだ。

 同年7月くらいから腎臓の機嫌をとるために免疫抑制剤の変更を試していて、その分、ステロイド剤の投与量が増え、易感染性が高くなったので、外出を控えめにしていた。そのために足の筋力が著しく衰えて、ゆえに、26型の自転車のペダルに満足に足が届かないという具合になったのだ。

 これは、自転車は、危うい。そう感じた。乗ること自体も恐ろしいが、自分の搭乗で他の人や公共物、あるいは人の所有に帰するものに損害を加えた場合、要件を満たせば損害保険はある程度下りるだろうけど、予見が容易な危険へは接近を避けたほうがよい。その結果、冬から春にかけて、なるべく出掛けないけれど、どうしても必要があって出掛けなければならないときは歩いたりバスに乗ったりする生活になった。まあ、初老の自転車生活は1年ほどで、それまでずっと公共交通機関での外出が続いていたから特に不便は感じなかったけれど。外出制限も、伝染病蔓延以前から個人的に厳重に課されていたことだったし。

 あまりに出掛けないので、家族から別の家族の持ち物である電動車いす、「セニアカー」に搭乗することを言い渡されたりした。セニアカーは、最高時速6kmながら、足をつかう操作はまったくなく、地面と、前方側方後方の確認を怠らなければ、歩道を通行して移動することができる。ここで特に重要なのは、「地面の確認」と、「歩道を通行」である。

 自重100kgほどあるセニアカーは、接地面積が大きいこともあり、歩道を重々しく通行するけれど、それでも地面の窪みや歪みに車輪が触れれば、かなり不穏なかたちで車体が傾斜する。そのため、できるだけ穏便な場所を選んで通行することがわりと求められる。そして、セニアカーは、歩道を通行してもよい「電動車いす」なので、あくまで歩行者と譲り合って進行することも大切である。地下鉄の出口から、お母さんお兄ちゃんお姉ちゃん妹さんと一家4人が横一列に並んで歩道がぎゅうぎゅうであっても、『どけ!』などと思ってはいけない。『少し開けてくださったらうれしいです。』という気持ちを込めて、すみません失礼します、とできるだけ驚かせないようにお声がけして(いや、でも結構びっくりされる。)、譲られた空間を落ち着いてすり抜けていく。

 手押しの車いすで介助のまねごとをすることがあるけれども、そのときともまた異なる気の使い方をしつつ、しかし、車いす当事者として、わりと堂々とセニアカーを操作している気もする。そもそもいくら心の中で身を縮めていても、車幅車長ともに大きく、しかも乗っているわたし自身もけっして小柄とはいえないので、一種の通行阻害物件として「罷り通る」とか「御免蒙る」とかいう風にどうしてもなってしまうのだ。

 まあ、これからしばらくは、自転車で出掛けられそう。

 この金曜の朝、自転車の施錠を解除して、サドルに跨がり、住戸のある建物の周りをぐるりと一周してみた。乗れるような気がしたので乗ってみたら乗れただけのことだけど、漕いでいるうちにどんどん面白くなってやや遠くの棟まで行って戻って、また別の方向を回ったりした。

 

 第9巻で完結。詐欺、恐喝、過失致死、強盗の各罪で服役中に知り合った元受刑者らが、首都で再起をかけたビジネスを始める。未来だけを見据えて努力を重ねようとすればするほど、後悔ばかりの過去は執拗に追いかけてくるけれど、訣別するために向かい合えば、「敵」は、意外と自分に似た顔をしていた。