ぴょん記

上古文学、外国語、数学、調理、編みもの、縫いもの、競争法

お后になるか奥様になるか

 盛夏のつねとして、朝の目覚めは早く、だから昼寝をとらずにいれば宵のうちにしばらく寝入ってしまう。ゆうべも夜中頃にはたと起きて、冷やしておいた濃いめのハイボール缶を空けた。9パーセントで350ミリって、けっこうなアルコール量かも。それから、寝床に入って、『紫式部日記』の、かなり思い切った現代語訳を読んだ。その前に原文と訳注に目を通しているので、自分の解釈でまあまあいいのか、一種の答え合わせのような感じ。

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 はじめての出産を終えて参内する中宮彰子のお供の車の序列から、紫式部の受けた待遇が彼女の身の上からはかなり上々のものであったことがわかる。たいした贅沢もしらず、それでも学者の家に育って教養だけはたっぷり身につけたさだすぎた女が、時の権力者道長の招きを受けて、その娘の師匠格として宮中に上がる。道長としては、彰子中宮のサロンが、一条天皇にとって来てみて楽しく長居したい場所になることが望ましい。育ちのよいきれいな女房連中もその道具立てのひとつだ。帝が足繁く彰子の殿舎を訪うことによって、彰子所生の皇室の子が、なかんずくは皇子が数多く生まれれば、道長の家筋は安泰であるから。もう亡くなってしまった皇后定子は、血筋でいえば、一条天皇とも彰子ともいとこの間柄だったけれど、それはもう立派な女性であったので、彰子が幼くみえないように道長としてもいろいろ心を砕いて、いいところのお嬢さんがいればぜひ上臈としてお迎えしたいと自ら親元にスカウトを掛けたり部下にめぼしいお嬢さんを探させたりしていたのだろう*1

 状況が許せば女御として入内することもいちどは考えられたような身分の高いお嬢さんたちは、なかなか気安く御簾の際までは歩み寄らない*2中宮大夫がやってきても応対を渋るから、しかたなく下臈の女房が大夫の相手をしようとするけれども、大夫は下臈の女房と話すのを厭がってそのまま下がってしまうので、事務が停滞する。そういうのをみて、紫式部は、お嬢さんがた、せめて給料分の仕事はしなさいよ、と内心激しく焦れる。しかし、彼女も、「日本紀の局」などといわれて、鵜の目鷹の目で観察されている対象であり、いいたいことはたくさんあるけど、ストレートに若い朋輩に注意を促すような真似はできない。

 だから、日記に書く。千年ののちも、残ることを、広く伝わることを信じて。嫡統の子孫に、儀式の次第や政治の駆け引きを伝えるために綴られる貴族の男の日記が権力への執念の精華ならば、王朝の女の日記は、名も残らぬ自分がたしかにそこに生きたことの証拠である。

 

 

*1:定子の母の高階貴子が受領層の出身であるのに比べて、彰子の母の倫子は宇多天皇の曾孫で父親は左大臣雅信。最上流階層出身の母親の伝手で集められた女房もあまたいたことであろう。

*2:上臈とはいえ一度は女房を務めた人が帝の配偶者のひとりとして入内することは殆ど考えられないだろうけど、いくつかの恋を経験したあと、上流貴族の定まる妻となることは十分考えられる。その娘が入内したり宮仕えしたり五節として奉仕したりするとき、母親の宮中での経験は、どんなに役に立ったことだろう。