ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

女子教育について小さなメモ

(※ うろおぼえ覚書きです。)

 都立高校の入学定員が男女別に設けられていて、その結果、ある高校では、同校に合格するのに、女子は男子よりも、相当いい点数を取らなければならないという状況が生じているという。それは、都内に私立の女子校が多数あって、そこにも生徒を配分しなければ女子校の経営が行き詰まってしまうからという理由があるからだそうな。

 明治の初めのころ、下田歌子の桃夭女塾で、歌学とか英語とか、上流の子女や夫人に学問を授けたほか、教養のある婦人が私塾でブルジョワジーのうちの娘を教えるというスタイルがぽつぽつと出てきたらしい。長谷川時雨の随筆など読むと、裕福で開明的な家庭に育った娘はわりあい自由に勉強する機会を得たようにも感じるけれど、それはあまり職業に直結するものでもなかっただろう。

 そのうち、官立の高等女学校や小学校の教師として教育を受けた女子が求められるようになると、東京と奈良に女子高等師範学校が設けられ*1、そのころには、一時桃夭女塾に籍を置いた津田梅子による津田塾のように、職業に就くための学問を志向する学生を多く抱える私学も現れた。官立の高等女学校が各地に作られ、小学校を終えた少女たちが進学して、そのうちの一部は、前述の女子高等師範や私立の女子大学校にさらに進んだのだろう。裁縫、珠算、調理、家政一般を教える学校、リベラルな教育を施したり、語学や音楽、絵画に特化した教育を行う学校も出来たようだ。医学、法学を修める途も開かれた。それが、大正から昭和の初年あたり。

 男女ともに、小学校を出てからその上に進むのが当たり前とはいえない社会状況だったので、同世代で高等女学校以上の教育を受けられる女子は、相当限られていた。東京でいうと、府立(と市立)の殆どが高女が戦後に都立高校になったようで、くわしくは、下のリンクをどうぞ。

ja.wikipedia.org

 

 朝食 パン、プリン、フルーツジュース

 昼食 たらこスパゲッティ、菠薐草とツナのお浸し

 夕食 未定→カレーライス、冷や奴

 

*1:1945年に広島女子高等師範学校が設立された。