ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

『鎌倉殿の13人』第47回

 京都の公家政権は、機を見るに敏な中規模自営業者の集団なので、鎌倉に3,40年前に成立した独立公法人が律令体制の維持に障害にならない程度の謙譲を示していさえすれば、それほど目障りにも感じなかった筈だ。具体的には、お上を中心とする京都の政権は貴いものとしてどうか堂々と存続してください、それをお支えする日の本の武家の筆頭者としての征夷大将軍、その源氏の旗のもとに集うた板東武者は、鎌倉府の統治組織を通じて、お上の足元にひれ伏しますよという、意思表示さえあれば。

 鎌倉第三代実朝が暗殺されたとき、その母方にして、また、暗殺者公暁の祖母の家でもある北条が裏で糸を引いており、つまり、源氏の血を引く、ひいては皇室の末裔である征夷大将軍など、じつはそれほど大切にされてはいなかったと知った後鳥羽以下の京方は、激しく動揺する。板東武者は、なかんずくはその代表者である北条義時は、必要があれば容易に京へ向かって弓を引く、それは、上皇方もろとも福原へ拉し去られた平家の悪夢の再来を意味している。時間的に直近の都と新都の距離の長大さでいうと、明治維新の比ではないが、蒸気船やまもなく引かれた鉄道のない時代の、京都と神戸の通いは不便である。経済力と武力を背景に、その大移転を短期間であるけれども為果せた平家の恐ろしさを、後鳥羽も聞かされて育ったことであろう。なんといっても、西海に沈んだ安徳帝は、父を同じくする兄なのであるから。

 後白河の側近で、頼家の蹴鞠の師匠であった平知康が、後鳥羽の院宣を携えて鎌倉に再出現。三浦館で飯椀ごと両脇から抱え上げられて、詮議の場へ運ばれる。知康が丹後局に叱られて後白河の御前から下がらされたのと、慈円僧正が卿二位に睨まれて後鳥羽の側近を外されたのと、オーバーラップしたよね。

 

 目が大きな少女キャラクターというのがかわいいという当たり前のことを、長らく忘れていた気がします。