まさかそれが直接の原因で死にはしないし、寝込むほどでもない被害に遭ったとき、ふと動揺する心を停めて、自分のただいまの被害は、自分以外の人にとっては「わたし」に対する同情の種というよりも解決すべき面倒ではないかと感じることがある。
これを立場を入れ替えてみると、わたしは、他の人の直面する困難を目にして、ああこれなんとか片付けないとなあ、きょうは他にすることも多いのに弱ったことだ、と頭を抱えるよりさきに、当の本人について、気の毒にとかかわいそうにと心を寄せるほうだ。たぶん、そうだ。
にもかかわらず、自分の困難は、ほかの人にとって迷惑でしかないと思うのは、他人を信頼していないとか、周りの人に対して心を開いていないとか、その種の非難のもとにはなるかもしれない。
でも、そういう思考と行動、たとえば迷惑だろうから目下の腹痛については黙っておこうというもの、が習い性になったのには、生活史の長い道のりの上での幾つかの出来事の積み重ねというものがある。
この種の内側の事情が誰のもとにも多かれ少なかれあると思うかどうかは、また別の話なのだろうが。