また定期通院。このごろおよそ2週間に1回は、病院に出向いているようだ。昨年の夏、10年間弱のみつづけた免疫抑制剤のひとつに腎臓が音を上げてそれを変更したのがまだ微妙に体調に影を落としている。うまれつき痛みや疲労感とはわりと仲良しの身体だったので、病気の症状自体は、ことさら頭を抱えるほどではないが、熱が出たり起きられなくなったりするのは、以前に比べていっそう困る。なにせ自分では食事の用意と後片付けのできない後期高齢者が同居するようになったのだ(まったくなにもできないわけではないが、本人は足元が覚束ないので、火気や熱湯を用いる調理が難しい。)。自分が食事を一切摂れない状態が旬日以上続いて、それでも朝の5時に起きて粥と卵料理と副菜、みそ汁の朝食から始まる三食を用意しないと、血液が痩せやすい年寄りが早晩弱るのは自明である。
熱は出ませんし、寝込んでもいませんという低め安定の体調管理でも可としなければ、日々の暮らしは回らない。
それに加えて、定期通院の合間に、親類の不幸に際して不祝儀の金包みを郵便で送るという作業があった。熨斗袋に白黒の水引がかかった袋がふたつあったので、大きいほうの現金封筒に、お金、中袋、熨斗袋、白黒の水引を2セットと、お悔やみの手紙を添える。手紙の起案は不肖わたくしで、葬式の際の親族挨拶とかこうした手紙とか若い頃から何度か代筆してきたので、かえってこのごろ何を書いても気に入らないようになった。もっと人の心に触れるようなやさしい文章を書きたいとは思う。尤も、それほどの深度は求めず、さっとひと撫でする程度でかえって用は足りるのではないかとも思う。
だって。先方は、もとより肉親の死という非日常で取り込んでいる。そこへとくに親しくもない相手から用件を伝える以上の思いをこめた手紙を受け取っても煩わしさを覚えるだけかもしれない。あとからふと、そういえばあのとき金包みのほかに短い手紙が添えられていたなあと思い出すくらいの手紙で、よいのではないか。
採血採尿、相談1件、診察1件、撮影2件が終わって駅の上のとんかつ屋さんで、遅い昼食。またいつもの「ロースかつ御飯」。