描くことすなわち、どうしたって溶け込めない自分を見つめることだから、描いたって地獄、また、描かなくったって種類の違う地獄だったのではないか。
— pyonthebunny (@ae_pyonpyon21_j) 2018年9月26日
この漫画家さんの人生も十分に哀しいこと悔しいことだらけだったようだけど、仕事で扱う分野の文献でも、このところASDや広汎性発達障害といった語を以前よりも頻繁に見掛ける。世の中のたくさんの人は、そういう障害が存在していることを程度の差こそあれ認知しつつあり、また、知り合いの誰彼の係累がそう診断されたという情報に日々馴らされている。
さはさりながら、だからといってすぐに「そういう障害」をもった人の暮らしが以前よりも安らかなものになるとは限らない。生活がよくなるとしたら、段階的に、しかも行きつ戻りつしながら、ほんとうに少しずつ、療育や行動療法などを通じて、前よりはましになるという程度に改善していく、していけばいいなあと思う。
LGBTの人々の生産性の存否が語られていたころ、そもそも生産性のあるなしが財源分配の是非や分配額の多寡に直結するという考え方は、ナチスの優生思想に直結したものではないかと、ツィッターのわたしのTLやよく読む日記ブログのひとは書いていた。こどもや子育て世帯を手厚く支援することが、いくらパイの大きさは有限であるとしても、その他の人々、とりわけ保護を必要とする人たちを切り捨てることに繋がるのはかなわんということがふつうに通用していた。
誰かに標準をはみだしたところがあっても、その人が生きる方向で社会的制度の仕組みと運用を考えなければ、いずれ「ここ」には誰もいなくなってしまう。そのためにうまいことお金や物や人手を遣り繰りするためにこそ、公務員はいると思うのですが。
やもたてもたまらず、あみたい