ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

『鎌倉殿の13人』第22回

 朝廷から征夷大将軍に任じられた頼朝の正妻として、北条政子は御台所と呼ばれることになる。この御台所という呼称について、のちに江戸幕府第14代将軍徳川家茂に降嫁した和宮親子内親王の側近が、台所だなどという汚らわしい名でお呼びすることまかりならぬ、大奥にても宮様とお呼び申し上げるべきであると通達したとかしないとか。まあ、和宮様は、当時の天皇陛下の妹宮で、先帝の娘、しかも内親王宣下を受けた身分だから、お付きの典侍とか女蔵人とかがそういったのもしかたないところがある。豊臣秀吉は、摂家の養子になって関白になったので、その母親は大政所、正妻は北政所とそれぞれ呼ばれた。平安中期以降、御台所とは、三位以上の公卿の正室に対する、しかも、関白又は摂政の正室が宣旨を受けて「北政所」を名乗る場合を除いて、用いられる呼称であったようである。

 とても古い時代に遡れば、長屋王の正妻の吉備内親王の屋敷跡から「帳内」のしかじかと記された木簡だか竹簡だかが出てきたことがあった。吉備内親王のみならず長屋王や、吉備内親王の姉の氷高内親王に仕えた下級官吏の給与に関するものではないかとも語られたと記憶している。氷高と吉備のふたりの内親王は長屋とは母親を通じたいとこで、平城京の中では立地も広さも申し分のない区画に住んでいた。たくさんいる皇族のなかでも最高の待遇を受ける彼女たちの屋敷は、広いうえに使用人も多い。家政を預かるそれなりに腕利きの家宰を抱えて、内外の物の動きや人の働きを取り締まらなければ一日も無事には暮れまい。

 頼朝の御台所政子の周りにも、徐々に規模を膨らましていく御所や鎌倉府、関東から全国にわたる所領群の管理のために、だんだんと吏僚や女房が集まってきた筈である。政子に与えられたのは、御所の奥深く美々しい裳唐衣でただ着飾っていればいいという立場ではないのだから。

 ところで、今回、善児さんは、曽我兄弟の仇討ちの話を梶原殿に伝えるというヒューミント活動のみで、ウェットワークはなかったようで、こういう回ははじめてなのではないですか。