ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

食欲が乏しくても調理は楽しい

 いま、薬理的に食欲が抑えられている状態らしいので、22日金曜は、ほかの家族の分の昼めしと夕めしは用意したけれども、自分は殆ど食べなかった。昼は、鰤のサクをヅケにして、薬味と一緒に出汁で湯漬けにするという、「漁師のあつめし」で、夜は、とり天を揚げて、蕎麦に載せたりして出した。

 

サツマイモも少し揚げた

 揚げ物をするのは数ヶ月ぶり。まず、この機会に台所にあった古い食用油を加熱して、廃油を固める粉末を使って処分した。そして、きれいな鍋に新しいキャノーラ油を温めて、鶏むね肉400gをバッター液に潜らせて、順次揚げていった。

 桝形商店街の司津屋さんのとり天がさくっと軽くておいしいのと同時に、とにかく量が多いのはなぜかといつも考えていたが、鶏むね肉を削いでバッター液経由で揚げていくと、たしかにもとの鶏肉の倍くらいの嵩にはなる。司津屋さんのとり天のボリュームの理由を、半分はお店の良心で、もう半分は鶏肉側の事情によるものと暫定的に捉えておくことにする。

 なお、今回のバッター液は、キッコーマンさんのレシピサイトに教えられたもので、薄力粉と冷水、そしてマヨネーズを合わせるものだった。たしかにマヨネーズに卵は入っているけれど、確実にいつもの揚げ物よりも確実に軽く仕上がった。

 まあ、食欲は、気が向いたらまた戻ってくることでしょう。

 

 『エマ』では、同国人の間の階級差を結婚の最大の障害にしていたけれども、本作のスミスさんとタラスさんのパートでは、ブルジョワジーの中でも最上の階層のイギリス人と、中東から連れられてきたその愛妻の物語で、こころの振幅が『エマ』のときの倍にも三倍にもなった。

 ヒューマンジーのオメロスの物事の捉え方が、いかにも狭い世界に閉じ込められて身動きすらままならなかった過去を反映しているようで、切ない。このまま彼は、煌めくチャーリーの陰画として、滅びへの道を疾走するしかないのか。

 

 島崎がかつて所属させられていた組織は、任意で参加して自己都合で退職できるようなものではなかった。こどものときに攫われて、生き続けるために組織に加わるかそれとも死ぬかという選択を突きつけられて、つまりは参加を拒む自由などなかった。長じてのちも組織を抜けるのはつねに至難の業だった。そうして繰り返してきた破壊と殺戮に、島崎はどこまで責任を負うべきなのか。