ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

アメリカ合衆国の中にある現代の児童婚

 だいたい毎週火曜の深夜にWOWOWで放送されている「FBI Most Wanted 4」の追いかけ放送を水曜日になってからiPadで観る。FBIのこのシリーズには、ニューヨーク市が主な舞台の本編、合衆国内での機動捜査が多いMost Wanted、そしてブダペストに本部を置くInternational のふたつのスピンアウトがある。

 今回は、東アフリカのソマリアからやってきた難民のコミュニティの中で、アメリカ合衆国家族法秩序においては認められないながら、イスラム教徒が複数の妻をもつことや14歳の娘を多額の結納金を受け取って嫁がせることが慣習として行われていることが事件の背景としてあった。また、数週間前に観た医療ドラマ『ニューアムステルダム 5』では、結婚披露宴で事故が起こり、多数の怪我人が病院に運ばれてきたけれど、他の病院に運ばれた形跡もないのに、なぜか花嫁が見当たらない、というエピソードがあった。これにも児童婚が絡んでいて、ただし、この児童婚には外国からの文化の流入ではなく、一種のカルトの影響が感じられた。そして、ニューヨーク市においては児童婚は認められていないにもかかわらず、警察も病院のスタッフも、誰一人それを咎めることができない。花嫁の母親が取得してきた結婚許可証が、若年者の婚姻を有効と認めるものだったからだ。だから、それでも「わたし」はこの事態をまったく納得できないというそれぞれの蟠りを抱いたまま、病院のスタッフは家路をたどるしかなかった。

 児童婚というと、たいていは、妻の立場の当事者が婚姻適齢に達していないケースを思い浮かべる。16歳や18歳に届いていない若い人の場合、自分ひとりの承諾に加えて、またはそれに代えて、保護者の承諾が求められるだろう。その保護者は、おもに当事者の生物学上の親であることが多く、ゆえに我が子の不幸になるような結婚をみすみす受け容れる筈がない、というのは、はたしてそう言い切れるかときかれるとまったく頷けない。そもそもその婚姻が「不幸」かどうかはどのように判断されるのだろうか。

 児童婚そのものとは別に、多文化が弾き合い、かつ交わり、離れ、編まれてきたアメリカ合衆国という国家の結合と分断について、思いを致すときもある。