あるいは、わたしの脚が衰えてしまったからなのか。
木曜は、午後に診察の予約をとっていた。だから、出掛けるのはゆっくりでもよかったけれど、診察の少なくとも1時間前までには検体採取を終わらせておかねばならないから、いずれにせよ、正午には家を出ているつもりだった。そのため、いつもは出前館でデリバリーを頼んで済ませている、わたし以外の家族の昼食を家で食べる弁当スタイルで簡単に用意してから自分の身支度をした。
ふだんは、カラーリング込みのヘアトリートメントを扱うときに使うポリエチレンの手袋で、紫蘇漬けを刻み込んだごはんをおむすびにして、海苔を巻いてラップで巻いてみた。手水も要らず、ごはんの無駄がほとんど出ないところはありがたかった。自分もおなじおむすびを2個ほど病院に持ち込んで休憩スペースで食べてみたけれど、栃木のマルコ海苔店さんの海苔は、時間が経つと水分を吸って強度を増すので食べ応えがあっていつもの手巻き寿司よりもむしろおいしく感じられた。これは、嬉しい発見だった。
さて、タイトルの「あたまのなかにある」というのは、わたしの脳内に蓄えられた左京区周辺の地図についてで、まだ脚も、そして肺も体幹全体も達者だったころ、あの辺りをどんどん歩き回っていたころに形成された。きのう、乗換時に、206番のバスではなく、203番のバスに、「なんとなく」乗って、降りるべきバス停で、時間に余裕がたくさんあったこともあって、「なんとなく」降りないで、浄土寺や銀閣寺道といったバス停の前を漫然と運ばれていった。いずれ特定のバス停で降りれば、別のバスなりタクシーなり徒歩なりで、目的の病院に着くのは分かっていたから、いつもと異なる経路を辿った車窓見物ぐらいの軽い気持ちだった。
しかし、バスを降りてから病院目指して歩き出したあと、タイトル通りのフレーズを思い浮かべた。数年前、鴨川の氾濫で、大学博物館の向かいの大学生協の建物が浸水したとき、川のそばにあるから、とテレビの画面を見ながら呟くと、即座に家族から、あの生協の建物はそれほど川に近接してはいない、と訂正された。たしかにそうなのだ。少し北の一乗寺の鴨川にほど近いラーメン店で昼食を食べたあと、川端通を走るバスで京都駅方面に向かったのは、まだわたしたちが京都市民になるはるか以前のことだったが、その際にも鴨川のすぐそばにはその生協の建物はなかった。
若い脚ならば、百万遍から出町柳まではすぐだろうけど、わたしは、もう、ことに夏は、そのすぐの距離さえ、歩きたいとは思わない。
それなのに、木曜は、弾みとはいえ、なぜかけっこうな距離を結果的に歩くことになってしまった。時刻は、午前11時過ぎ、地表近くの気温は、31℃前後。仕事をするつもりで持ち出したA4のPCの入った鞄を肩から提げた足弱の中年にとって、ややハードな歩行環境である。ともかくわたしは、方向感覚はわりと適正であるけれども、逆メルカトル図法で複数点の相互の距離を認識しているきらいがあるので、歩ききることは歩ききるけれども、ときどきこうして4つのバス停間をわりと無駄に徒歩移動したりすることになるのだ。巻き添えになった連れの人がいなくてほんとうによかった。