介護保険法115条の46第1項に、「地域包括支援センター」についての定義が、ある。
介護保険法 第115条の46 第1項 地域包括支援センターは、第1号介護予防支援事業(居宅要支援被保険者に係るものを除く。)及び第115条の45第2項各号に掲げる事業(以下「包括的支援事業」という。)その他厚生労働省令で定める事業を実施し、地域住民の心身の健康の保持及び生活の安定のために必要な援助を行うことにより、その保健医療の向上及び福祉の増進を包括的に支援することを目的とする施設とする。
宅には介護保険法に基づく介護サービスの提供を受けている後期高齢者がいるので、委託事業者の雇用するケアマネージャーさんから、1ヶ月に1度、連絡がある。そのうち3回に1回は直接の訪問、残りの2回は電話によるもので、そのうちの訪問時、丁寧誠実迅速な30代の担当者さんにとってはきっと鬱陶しいだろうが、うちでは当事者の後期高齢者本人のみならず、他の家族も総出で担当者さんと一緒にお茶を飲む。
この訪問や電話による連絡、じつは、介護サービスを受ける当事者本人だけで受けてもよい場合があり、宅のケースがそれらしい。介護認定が要介護ではなく要支援であるとか、とりあえず意思の疎通ができているとか、そういう基準による判断のようだが、実際に書類を揃えたりお金を支払ったりするのは、当事者ではなく家族であるわたしたちなので、訪問時はいつも手帳にメモを取りながらお話を伺う。
この毎度の訪問あるいは電話連絡のたびに、これが介護というケアを要しない成年者に対するものならば、プリント1枚郵送するか、あるいはメール一往復で済むことだろうにと感じる。それをわざわざ、90日に1回の訪問を設定し、訪問を受ける側としては居間を掃除して待機してお茶飲んでという手間をかけるのは、そこに平生の様子を、はっきりいえば老いの進行度を目視して観察しておかねばならない当事者がいるからだ。
とはいえ、この仕組み、30年後、わたしが後期高齢者本人の年齢を超えたころには、なんだかもう破綻しているような気がする。ケアする側の頭数が圧倒的に足りない、支払うべき財源が枯渇しているという問題よりも前に、年寄りをはじめとしたケアを要する側の総量が多すぎて、公助の根気が尽き果ててしまう。介護というドメスティックな分野では、地域の共助の浸透には限界があるし、では自助はどうかというと、家族の支援を期待するのは、介護離職という語に表されるように、当事者の近親等の負担があまりにも多い。
たとえば、ただ三食を用意して、洗濯等のサービスを提供しているだけの現在のわたしでも、後期高齢者との同居以前の生活では考えられなかったほどの労働量の増加である、ただの家事だけでも。
おそらく30年といわず、10年のちには、病もうが衰えようがそれほどの顧慮を期待できない社会が到来する。「家族だから」ということで、宅の後期高齢者に住み慣れた大田舎からこの片田舎に転居してもらい、起居をともにするについては、倫理的なものも含めてうちの家族の間では何年も意見を交わしてきた。わたしが面倒な病気に罹っているせいで、後期高齢者を何十年も暮らした平屋へわたしたちが移り住むことはできなかった。ともあれ、現在でも、老親を引き取るとか、あるいは若い世代が親のもとへ戻るとか、そういうのは、どこの家でもする選択というわけではなく、老夫婦だけとかおひとりで暮らす老齢の人はたくさんいる。
わたしも、必ず、そうなる。
ひとり寝ついたあと、死ぬまでの時間に、家を片付け、経済的な問題の処理を済ませ、自分のお骨の行き先まで決められればいいけれど、どういう衰え方をするか自分では選べない。異変を感じて15分で心臓が止まっても困るし、かといって、倒れたあと30年も自分のことが自分でできないままに寝て暮らすというのももっと困る。
でも、だからといって、親族の手を煩わすというのは、期待できないんだよね。
そして、アスパラガスもブロッコリーも、わからない。