ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

悪口で深まる連帯意識

 不当に誰かを貶める言説でも、密かにそれに同意する者が集まると、気まぐれな暇人の集団であることを超えて、立派なひとつの勢力になってしまうことがある。

 いわゆる「隠れトランプ」といわれる人々は、公にはトランプ支持を表明することはない。なぜならば、排外主義を唱えるトランプ氏の政治上の選択が、自由と人権を重んじてきたアメリカの道徳的基準からは遠く離れたものであるからだ。しかし、心のなかではそれに共鳴する部分が大きく、それは、肝心の投票に重大な影響を及ぼす。後からきた人たちにも努力を結実させる機会を保障しよう、自分より貧しい人たちに生存に必要な衣食住を用意しようという伝統的な美徳に、あの大きな国の経済がまったく追いつかなくなった結果の潮流ではあるが、とても残念なことである。

 残念といえば、これまた寂しいことを書いてしまうが、誰かの悪口をいうこと、誰かを悪者にすることで、人と人とが繋がり、絆を強めることがある。その誰かには、ほんとうは、非難されるべきところも仲間はずれにされる理由もない。ただ、その誰かを叩くことで生じる快感を共有し、退屈や惨めさを一瞬忘れることで、なぜか人間は幸せになれるものらしい。それが人間の習性ならば、せめて世代を追うごとに、少しずつでも弱くなればいいと思う。

 

  この本には、そんなことは書いていない。生命の宿る器である肉体のモデルチェンジを淡々と説明するものだ。ただ、直立二足歩行と犬歯が小さくなったことの2つが、とくに現生人類になにをもたらしたか考えたとき、このてのひらはたたき合うのではなく、背を撫であうことにこそつかいたいと願う。