以前にも書いたことがあるが、堺屋太一『峠の群像』では、吉良上野介義央は、高家筆頭の地位に就くまで、若いころから席の温まる暇とてないほど人と人の間を走り回って働いた、典型的なソーシャルクライマーとして描かれている。彼の職掌柄、決まりごとを伝え、教え、ときには取りなし、またときには代わって叱られるぐらいのことは毎日のことであり、だからこそ、思うように動かぬ人間に対して、それがたとえ本家が大藩である大名に対しても、実に効果的な叱責を口にできたのだろう。効き過ぎて、激昂させ、社会的大事件の種となるような小言さえも。そこで用いられるのは、教養の顕れとしての「育ち」であり、自ずと分からないようならば、なぜ専門家である自分に聞かないのだ大切なお役目であるからにはつまらないプライドなど投げ捨てて、自分に尋ねるのが地頭の良さだろうと赤穂浅野の殿様を詰る。妻の実家で息子の養家である上杉家の軍事力に威を借りた部分もあっただろうし、堺屋太一の指摘するように製塩による浅野の収入が武家が経済主体として市場に本格参入し始めた時期に隠然とした力と意識された点も関係しているだろう。とはいえ、第一義的には、吉良は、「お作法」の知識を盾に浅野を辱めた。それがこのたびの遺恨の本体といえるだろう。
これも既述だろうが、鳥飼茜『先生の白い嘘』には、「育ち」について痛みが身に沁みるような場面がある。初対面の相手、フィアンセの友人と、相手構わずところも選ばず、強姦する男が出てくる。彼のフィアンセとその両親、彼と彼の母親と妹とが、結婚を前提としての顔合わせをするたぶんかなり高級な部類の和食の店で、心身ともに健康そうにみえる彼のティーンエイジャーの妹は、箸をうまく遣えない。その店を日常的に家族で利用するフィアンセの父親は、彼の会社の親会社の重役である。自分が飲み屋のトイレで襲った女に惚れられて、ずるずると深入りしつつ、順調に結婚の準備が進んでいく中、犯罪者でもあり、同時に、何らかの心の病を抱えた彼は、礼式にかなった作法通りとはいかなくても、箸で料理を口に運ぶという動作ができないわが妹をみて、なにを思ったか。フィアンセの家族が、彼の妹を貶めたわけでもない。むしろ、フィアンセなど自分の着なくなった洋服を妹にあげようかなどと親切である。もっとも、このフィアンセも、少しずつの歪みが累積してどうしてまたこうなったという仕上がりなのだが、わが身を省みれば、たいしたことはない。
とにかく、彼は、猛然と恥という感情が自分に襲いかかってくるのを、他人事のようにみていたのではないかと思う。
パック寿司の蓋のような、ちょうどいい「釣り」には、魚として食い付かねば。
朝食 パン、ヨーグルト、コーヒー
昼食 カレーライス、トマト、油揚げ
夕食 ごはん、茄子と小松菜と豚肉炒め、など