ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

視覚なかんずくは色覚と、匂い

 忘れないうちにメモとして。

 ゆうべ某所でご懇篤な示唆をいただいたように、かおりといろどりとは深い関わりがあって、一部のものの香と色との間にはかなり多くのひとの裡に共感覚を励起させることすらあるように感じる。もっとも、その香と色、または、香と形状との関係は、つねに一定ではない。たとえば、ひところは、梅干しといえば酸いものであって、大きな梅の実の赤紫蘇に染められた画像を見せられれば、しぜんに唾液が分泌されるものだったが、このごろでは、色がそれほど淡くはなくとも蜂蜜や黒糖で漬けられた梅の実もひろく流通しているがために、大きな梅の実の干したものは必ずしも万人に酸っぱい印象を与えるものではないようになった。

 嗅覚は、ときには個体を危険から遠ざけるために役に立つ。鼻が利けば、多少視覚が発達していない生物でも、腐敗して、それを咀嚼、嚥下することがただちに健康に甚大な悪影響を与えるであろう食べものを避けることができる。しかし、反面、同じ匂いを感知する能力が、生き物を死に至らしめることも少なくない。よいかおりだなあとふらふらと近寄っていった昆虫をそのうちに取り込んで養分にしてしまう植物すらある。匂いと嗅ぐことの関係は実に興味深い。環世界のはなしでいうと、嗅覚が人間などよりよほど発達している犬たちには、近くにいる生き物の脳内物質の分泌を感じることや、目の前の道をどのくらい前に飼い主が通過したかを知ることが可能だという。

 このあたり、直感的にいうと、最近では電子的方法で広く共有することが容易な画像、映像より、受け取る側によって揺らぎの大きい匂いのほうがひそやかで、むずかしいように思う。ただし、むずかしいということは、しばしばあたればでかいということでもある。

 菅公は、衰退した唐へは行かなかった。終の住処となった太宰府も、地理的には大陸に近いけれどもそこはまだはっきりと日本のうちだ。彼にとって少年の日から昼も夜も読み継いだ典籍のふるさとである唐土は、彼の頭の中にこそあり、都の屋敷にかの地を思うよすがとして父子代々愛でてきた梅花は、平安京長安のふたつの都の記憶を預けた木だった。

  寛平の御時きさいの宮の歌合のうた  よみ人しらず

 むめが香を袖にうつしてとどめてば 春はすぐともかたみならまし 

 

 

古今和歌集 (岩波文庫)

古今和歌集 (岩波文庫)