感染症対策は、大なり小なりいずれにしても困難な仕事だ。対策の一環として、人のある行動を、疫病の広がりを抑えるためにと制限することもしばしば行われる。その制限に人々が服して、病気が広がらなければああよかったですねということになり、もし、病気の範囲が一定程度拡大したとしても、あの制限を布いたからこそ、この程度の被害で済んでいたのですよという説明ができる。そして、もし、その制限に従わない一群の人たちがいて、そこで病気が発生したとき、重い責任を、少なくとも道義的な非難を、そのひとむれの人々は負うことになるだろう。多くは、公式に認められた発症件数や感染者数を根拠として下される評価であり、どちらに転ぶかは、変異さえするというウイルスが生身の人間の身体で起こす不確実な変化に対象人数を掛け合わせなければわからない、実際の話。
ツイッターで:
以前、同輩にひどいことをした未成年者に、「あなたが同じことをされたら厭でしょう?」と聞いたところ、「もちろん厭だ。されたら厭だとわかっているからこそ、あいつを潰すために効果的だと考えて、した。」と答えられて、人間の何割かはこういう考え方してしまうよなと思った。
— pyonthebunny (@ae_pyonpyon21_j) 2020年3月5日
学校では、「友だちをいじめてはいけない」と教わる。偶々同じ学年になったり、通学路が近いというだけで、その相手は「友だち」であり、「いじめること」は、いけないこと、と習う。だから、人の心の痛みがわかるからこそ、その弱点を積極的に攻めることで勝ちを得ようとする態度は、予め抑圧され、警戒される。
しかし、そのような態度は、身体的スポーツや、頭脳競技では、ルールを遵守するという約束のもとで、むしろ推奨されるものだ。近代戦においても、捕虜は虐待しないとか医療施設は攻撃対象としないという規則を守りつつ、相手の隙を衝き、敵を出し抜き、その将兵の命を奪うことさえ認められている。
さて、ゲームでも戦争でもないとき、当座のこの国の社会の中で、相手の弱みを攻撃し、生命の際のところまで追い詰める行為が、どうして避けられるべきものであるか、わたしは、ツイートで示した未成年者に語りはしなかった。自分が殺されたくはないから、人を殺さないという理屈が通じる相手と通じない相手がいるとすれば、その未成年者は、おそらく後者に属していた。そういう理屈で生きてみて、どこかで壁にぶつかるようにも思えなかった。いったい、それは、「悪」と呼んでも構わないものなのか。
これは、自由権の制限について考えるとき、正義の反対側にあるという、「悪」について、しばしば思いを致しつつ、想起するエピソードである。
洋酒に漬けたカレンズがいっぱい入ったパンも卵液に浸けて焼いてみた。おいしいことはおいしかったが、少しわたしには高級すぎたようだ。