藤原正彦のエッセイ集だったかなにかに、数学者のパーティに伴われたパートナーさん(多くは、令夫人)にとっては、数学者に専門の話を聴いていて、それについて礼儀上質問を返さねばならなくなったとき、「その境界上はどうなりますか。」というフレーズが便利であるというのがあった。うろおぼえだけど。
個人の自由と公共の利益も、相反することなく、ともに存することができれば皆のためによい。朝、食パンの6枚切りを2枚食べて出勤するという自由は、公共の利益を損なわない。でも、自己の学問的興味を満足させるために、住宅密集地の真ん中のアパートの一室で病原菌を培養するのは、公共の利益を損なうおそれがかなり大きい。
では、○か×かの境界は、いったいどこにあるのだろう。自分と異なる嗜好、あるいは指向をもつ、しかし、紛れもなく、自分と同じように現在を生きている誰かの心と、かたちの定まらない「公共」の両方に向けて、想像力を巡らし、「正しく」または、「なるべく正しく」判断する勇気をもたなければならないところである。
「代替手段の存在は、犯罪の発生を抑止する」、あるいは、
— pyonthebunny (@ae_pyonpyon21_j) 2020年9月4日
「代替手段の不存在は、犯罪の発生を容易にする」とまで、一般化してかたってよいのか、それも明らかではない。
とても難しい問題で、もしも、10000人が「人形」で満足したけれど、1人が「人形」には飽き足らず罪を犯してしまったら、それは、「代替手段が用意されていたにもかかわらず、抑止力とはならなかった。」という評価に繋がるのだろうか。
さて、これは、大人の「人形」の話。もんでんあきこさんの『エロスの種子』という作品のひとつに、「人形」をめぐるエピソードがある。難病で余命幾ばくもない女性が、造型師に自分そっくりの人形を作ってほしいとオーダーする。骨格や顔のつくりはもちろん、爪先までまったくの写しを望む彼女の希望を、造型師は結局かなえることになったけれど、彼女が残していったのは、その人形だけではなかった、と。