ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

『鎌倉殿の13人』第37回

 わたしは、宮沢りえさんが好きなので、今回も、りくさんに関すること中心のエントリになると思う。

 りくさんは、壇ノ浦の合戦のあと、捕らえられた宗盛卿が鎌倉に押送されてきた際、かつての知り人として、挨拶を交わしている。一説によれば、池禅尼の姪であり、宗盛とは直接の血の繋がりはないものの、平家の公達からかなり近い場所にいた女性であることが描かれている。鎌倉には慣れましたかと宗盛に尋ねられたりくさんは、こんな辺境にみやこ育ちのわたくしがどうして馴染むものですかと語気荒く答えて、宗盛や、居合わせた夫の時政を驚かせている。以上、わりとうろ覚えである。

 うろ覚えついでにいうと、頼朝が亡くなる当日、北条一族勢揃いの場で行われた餅作りの場から、時政の正妻という身でありながら、興味なさそうに立ち去るりくさん。そこで、頼朝とはじめて一対一でことばを交わす。そういえば、亀の前の騒ぎのあと、伊豆に一時退隠していた時政とりくさんを訪ねて三浦義村がきたとき、義村に対するりくさんの態度は、どこか思わせぶりであった。義村とりくさん、曲者同士の語らいである。

 若い頃のりくさんは、いったんは結婚したが、夫に死別して、しばらくして時政と再婚をした。時政の長女の政子と年が変わらないりくさんにとっては、時政は父親といってもよい年回りで、恋愛というよりは、病まない死なない貧乏させないという当時の当然の評価軸に沿って選んだ夫である。実際に、時政は、娘婿の頼朝公の開府に伴って、伊豆の小豪族の主であったのに、異数の出世を重ね、一度は離れた京のみやこへも、りくさんは胸を張ってどうですといえる地位と財を得た。これは、時政だけの手柄ではなく、りくさんの、夫のお尻を叩く能力によるものが大きい。

 ある恩師曰く、「優秀な男には、とりわけサディスティックな妻を添わせる。」である。

 政範が亡くなってしまってからのりくさんは、畠山討伐といい、平賀擁立といい、箍が外れてしまったように、時政に強力にドライブを掛け、時政は軋みつつも、その妻の望みを叶えてやろうと奔走する。実朝を騙して畠山討伐の下文にサインをさせたり、速やかに出家して平賀に鎌倉殿のポジションを譲りますという起請文を書けと迫ったり、あの橋供養の餅作りの中心にいた老いてなお壮んな男はどこへいったのかという感じなのだが、それが破滅への道筋であることを案外ちゃんとわかっていたのだろうと思わせる彌十郎丈の演技であり、三谷さんの脚本だった。