ぴょん記

きょうからしばらく雨降る日々

『鎌倉殿の13人』第40回

 和田義盛は、頼朝と同年で、旗揚げ以来の重臣である。三代将軍実朝は、この和田殿に懐き、伺候して昔語りをせよとかややオフィシャルには正月の祝いのバンケットを主催せよとか親しく命じている。実際、和田一族には、そういう晴れがましい席を宰領する地力があったのだろうし、それは鎌倉初期においては、即座に動かせる兵力を十分に有していたことを意味する。

 その頼もしさが、義時には、邪魔になった。和田殿への情とか、長年にわたる幕府に対する功労とか、そういうのは脇に置いて、義時が大江広元と目を見交わしたあとは、和田一族は粛清せねばならない対象と決まった。

 今回、父親が流罪と決まったことを悲しんで死んでしまった6歳の娘の記事を『吾妻鏡』の解説本で見つけた。泉親衡の乱で捕縛された和田胤長がその父親で、かれは義盛の甥にあたる。義時による度重なる挑発や、身内を失う落胆、悲しみや怒りが積み重なって、和田殿はとうとう次回、蹶起することになるけど、朝夷名さんという息子さんは、やはり巴御前所生っぽくはないですね、なにより年代的に。