発熱は常態化したから、こんな日常にもさすがに慣れてきたけれど、あらためて文字にしてみるとやはりわれながらかなり情けないものがある。
先月下旬以降、微熱以上高熱未満の発熱を日記に記録する日がしばしばあった。発熱の頻度はおよそ三日に一度で、これならなんとかいけるのではないかという判断で、今回の定期通院でも微量ながらステロイド剤が減らされた。うまくいけば、もう一刻み減らせるかもしれないという。
脚の筋肉が減ったので、文字通りひょろひょろ立ってぼちぼち歩いている。木曜の通院の帰り、あと1000歩ほど歩かなければいけないところ、脚のほうで、『もう歩いてやらんぞ』とストライキを企画しているという噂が体内を駆け巡ったので、まあまあともっぱら脚(と肺)の機嫌を取りながら休み休み帰ってきた。自宅まであと1000歩ぐらいだと、さすがにタクシーさんを頼むのも申し訳ない。
自分の思い通りになるのは、せいぜい朝昼晩の三食の仕度ぐらいのもので、それだって疲労が溜まりすぎないように休み休み働いている。いったい最後に何かに心おきなく全力投球したのはいつだったかというと、このころだとピンポイントではっきりとは思い出せないけれども、二十歳よりは以前のどこかの時点だろう。二十歳を過ぎてからは、そのころには力を出し尽くすと早晩身体が壊れることが明らかになっていたので、意識的に頭と身体にはやめの休養をくれてやらないとおおごとになるものだから、くたびれたといっては、よく休んだ。傍からみたらきっとたいした怠け者にみえたことだろう。ところで、持病や体質、仕事の量など、わたしはよほどの必要がないかぎり、人に説明しない。いまおもえば、東洋医学でいうところの「未病」の状態が長く続いていたのだろうが、本人でもいまごろ気がつくぐらいだから、当時の他人に理解を求めてもそれは無理というものだ。
そういうときは、なるべく周りに迷惑を掛けないように、壁伝いにそろりそろりとゆっくり歩むのが最上にしてせいぜいの生存戦略になる。もう、学校の課題や仕事の成果物など、その種の締切をきちんと守ることだけが命綱。いまの家族の食事作りだって、煎じ詰めれば、定時にそれぞれの食事を配膳できる点がいちばんの取り柄という具合だ。そして、わたしのつくる食事は、全体に塩気が乏しい。
さて。
きのう、机の脇の籠から、一乗寺と吉祥寺に店舗があったアヴリルさんの糸が出てきた。手前のは、京都に遊びにきたときに選んで巻いてもらったウールで、奥のはお正月の福箱に入っていたもので、絹の糸らしい。
絹の糸のほうは、たぶん織物に使うものだろう。
今回、読みたい記事があったけどAmazonで物理版が売り切れだったので、日本評論社さんのサイトから取り寄せてみた。上のリンクはKindle版で550円なので、税込価格1540円の雑誌を660円の送料を払って買うよりはとてもリーズナブルだと思う。
この話に出てくる花塚家の大人たちと、ヒロインの婚約者の陸軍少佐が抱えている事情というのがなんとも深刻そうで。そして近づく第一次世界大戦開戦とシベリア出兵。