ぴょん記

大根のおいしい季節ですね。

台所は、灼熱の、熱風の

 台所のガス台のすぐそばに南向きの掃き出し窓がある。火を使っている最中、これを閉めると、たちまち額から汗が噴き出す始末だけど、閉めないことには炎が安定して鍋底に当たらない。食事を作るという目的の前に、人間向きの気温湿度のもと呼吸するというわたしの福祉が脅かされる好例であるけれども、それが1日30分以内なら、わたし以外の人は誰も気に掛けないものらしい。

 電磁調理器なら、風が吹き込もうとも鍋のお湯は規則正しく沸きたつのだろうな。

 ふだん、よい環境で生活していて、しかし、非常のときに慌てず騒がず与えられた条件で最高とはいわずともまずまずのアウトプットを引き出せるというのがよいと思う。それはひとつの知性ともいえる。たとえば、徳川n代将軍の時代、御殿が火事になり、吹上のお庭かどこかに避難して火の行方を見守る奥女中らのもとに、炊きたてのごはんのお櫃が届けられた。ところが、御膳所の人も慌てていたのだろう、碗も箸も添えられていない。ただお櫃に杓文字だけが付いていた。それをみてたじろぐ女中たちの中のひとりが、懐紙に飯をとり、静かに口に含み始めた。身一つで避難した女中たちだが、かろうじて懐紙ぐらいは身に携えている。なるほどこのようにして飯を食べれば、手の汚れを身体に移すこともなく空腹が癒やせると皆感心したらしい。たぶん、4代家綱の大奥の人じゃないかと思うけど、そこはあやふやだ。吉屋信子の小説かなにかで読んだのだろう。

 また、別の小説では、世界中にきれいなお湯が出るバスと水洗トイレ、さらさらのシーツのかかったクイーンサイズのベッドを備えたホテルを次々と建てていくアメリカ合衆国という国の民に対し、それほど物質的に豊かではないが、国の規模では肩を並べる某国の将校が、「お前たちは、いったい、きれいな風呂と、洋服と、十分な食べものがなくても、それでもなお、しゃんとしていられるのか!」と荒っぽく問うシーンがあった。それは、このように続く。「おれたちの国の物質的な欠乏とか、おれたちの国の女たちの素朴さとか、さんざんからかいやがって。」。郷土料理とお母さんや女きょうだいを侮られるのが堪えるのは、わたしにもよくわかる。

 とにかくそういう憎悪に満ちたやりとりよりは、この暑さは我慢できるものではないかとも思うけれども、でも、7時40分時点で29℃を超えているとか、けっこうつらい。昨日も一昨日も最高気温が31℃を超えていた。都心を直射日光を浴びながら歩いている人に比べればそれほどひどくもないだろうけど、でもしかし、けっこうくたびれるものだ。

写真は再掲。ベランダのトマトが次々に赤くなってきた。